みずのえちぜんのかみただくにのはか
県指定文化財 史跡 No.1
水野忠邦(1794~1851年)は、天保十二(1841)年、11代将軍徳川家斉の死後、老中首座となり、江戸時代の三大改革のひとつ「天保の改革」を行った人物として知られています。
改革は株仲間の解散や上知令など幕府の強化を目指すものであり、あまりにも厳しすぎたため、諸大名や民衆の反発を招き、わずか2年余で挫折し、忠邦は失脚しました。
忠邦は、唐津藩(佐賀県)・浜松藩(静岡県)の藩主であり、山川と直接関係はありません。しかし、山川の地は、水野氏の初代忠元が、大坂夏の陣(1615年)の功績により、三万石を与えられて初めて大名にとりたてられたゆかりの土地であり、20年後、駿河へ国替えとなった後も、11代忠邦までの水野家歴代当主の墓が山川の万松寺(江戸時代末期に火災により消失)に造られました。
墓は4.1メートル四方の石の玉垣に囲まれ、その中央に造られた墓石の側面には、忠邦の辞世の句が刻まれています。
くみてこそ むかしもしのへ ゆく川の
かへらぬ水に うかふ月かけ
指定年月日 | 昭和33年3月12日 |
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所在地 | 結城市大字山川新宿 |
所有者 | 個人 |
製作年月日 | 江戸時代後期 |
大きさ | 410センチメートル四方 約17m2 |