結城七福神めぐりコース(約8km、約4時間)

結城七福神めぐりコース [PDF形式/689.32KB]

結城七福神めぐり資料 [PDF形式/768.64KB] 

※提供:結城市観光ボランティアガイド協会

小田林駅  
1.0km  
金光寺【寿老人】055   金光寺(きんこうじ)は慶寿山(けいじゅざん)金光寺といい、真言宗(しんごんしゅう)豊山派(ぶざんは)の寺です。当寺の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)は結城初代朝光公の守り本尊で、小田林聖観世音として現在地に建立されました。建立時期は史料がなくわかりません。結城家代々の城主が信仰されました。本堂の建立は結城家12代持朝公によって行われた事が寺伝にあります。享保18年(1734)に再建され、昭和58年(1983)に改修されました。山門の梁(はり)に結城家の財宝のありかが秘められているといわれる三首の和歌が刻まれています。

  こうりように ふれてからまる うつ若葉 つゆのなごりは すえのよまでも
  きの苧(カラムシ) かふゆうもんに さくはなも みどりをのこす 万代のたね
  あやめさく 水にうつろう かきつばた いろはかわらね 花のかんばし

  この寺の福神は寿老人で長寿を授ける中国の神です。長い髭を垂らし、長頭が特徴で、杖をつき、杖の先に二つの桃(中国では桃は長寿のシンボル)がついていて、鹿(中国では長寿を表す動物)をつれています。
3.0km  
市杵島神社【弁才天】024   この弁財天は市杵島(いちきしま)神社が無住なため、孝顕寺が保管する同社の福神です。市杵島神社の祭神(さいじん)は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、弁天島に天正19年(1591)に創建されました。この女神は、福岡県の宗像(むなかた)神社の祭神の宗像三神の一柱です。この神が日本に仏教が伝えられたとき神と仏が調和すること(神仏習合(しんぶつしゅうごう))で、弁財天にあてられました。
  弁才天は、音楽の神、学問の神、さらには幸運や財宝、子宝を授けるというインドの神で、七福神の中で唯一の女神です。なお、弁才天と書かれるようになるのは、鎌倉時代以降のことです。その姿は、本来は八ツのひじ(八臂(はちひ))をもち、弓・矢・刀・金剛杵(こんごうしょ)(もとはインドの武器)などを持っていましたが、のちには二ツのひじ(二臂(にひ))となって、琵琶(びわ)(弦楽器の一つ)を手で奏でる形が多くなりました。(当社の像容は前者です)
0.3km  
孝顕寺【弁才天】022  開山は独放曇聚(どっぽうどんしゅう)禅師、開基は結城家15代政朝(まさとも)です。
永正12年(1515)に玉岡の地に創建され、永正寺といわれたが慶長4年(1599)現在地に18代秀康(ひでやす)によって再建され現寺号となりました。
0.3km  
毘沙門堂【毘沙門天】026   下総州(しもうさしゅう)結城絵図(ゆうきえず)(享保19年=1735年)に多門寺(たもんじ)毘沙門堂(びしゃもんどう)とあります。いつの頃に創建されたのかは、史料がなくわかっていません。
  ここの福神は、毘沙門天で、毘沙門天は四天王(四方にて仏法僧を守護する四神)の一人、多聞天のことであり、単独で祀られる場合は毘沙門天と呼ばれます。中世を通じて福の神として信仰されています。江戸時代以降は勝負事に利益ありとあがめられています。鎧兜(よろいかぶと)(甲冑(かっちゅう))を身につけ、左の掌(てのひら)に宝塔をのせ、右手には三叉(みつまた)の矛(ほこ)を持ったインドの神で、ここの毘沙門天立像は市指定文化財です。
0.5km  
健田須賀神社【大黒天】健田須賀神社大黒天   健田須賀神社(たけだすがじんじゃ)は明治3年(1870年)に健田神社と現在地にある須賀神社が合祀(ごうし)されました。
  ここの福神は、大黒天(だいこくてん)で、境内社の甲子大黒天に安置されています。大黒天は神道では大国主命と仏教の大黒天が習合し、左肩には財宝の入った大きな袋、右手に打ち出の小槌を持ち、足元には米俵といった姿で親しまれています。五穀豊穣、商売繁盛、金運上昇、運気上昇、縁結びなどのご利益があるといわれています。当社の甲子大黒天像は、明治頃のものと思われますが、大正時代は縁日には大変賑やかで屋台が出て手踊りを奉納した記録があります。
0.3km  
蛭児神社【蛭児】006   蛭児神社の創建は史料がなくてわかりませんが、宝暦6年(1756年)再建されたという記録が残っています。拝殿は、明治29年と平成20年に改修されています。この神社の登記上は漢字で「蛭児神社」と書き、読みは「えびすじんじゃ」と読みますが、「えびす」はいろいろな漢字があてはめられて、夷、戎、胡、恵比須、恵比寿、恵美須、恵毘須、蛭子、蛭児などと表記されています。

 蛭児神社の福神は、蛭児です。蛭児神社の祭神は大国主命の子である事代主命です。事代主命の尊称が「えびす」なので蛭児神社といいます。「えびす」は、古くは「大漁追福」の漁業の神でした。時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす商業や農業の神となりました。七福神のなかでは唯一日本由来の神様です。その姿は、風折烏帽子を着付け、鯛を左わきに抱え、右手で釣竿をもっているのが一般的です。

0.2km  
大輪寺【大黒天・布袋】004

  大輪寺(だいりんじ)は如意山(にょいざん)観音院(かんのんいん)大輪寺といい、真言宗(しんごんしゅう)豊山派(ぶざんは)の寺院です。創建は安貞元年(1227)結城家初代朝光(ともみつ)公が、田河原の大輪坊の僧・元観(げんかん)を招いて現在地に坊舎を移建して大輪寺に改めたと伝えられています。慶長3年(1598年)頃に現在地に移されました。現本堂は平成3年(1991年)建替えられました。観音町にあった境外仏堂である人手観音堂が、令和2年(2020年)大輪寺境内に移されました。木像大黒天像(江戸時代初期作・市指定文化財)・石造大黒天像と人手観音堂から移された石造布袋像があります。
  この寺院の福神は大黒天と布袋です。大黒天は、インドの神で飲食を司る台所の神とされていました。これが日本に伝来して、中世(ちゅうせい)以降、音(おん)が似ていることから大国主命(おおくにぬしのみこと)と混同され定着しました。そして、農村では田や畑の神、商家では商売繁盛の神として信仰されました。その姿は頭には頭巾(ずきん)をかぶり、左の肩に大きな袋を担い、右手に打出の小槌を持って、多くは米俵に乗っています。当寺院の大黒天は室町時代の作で、市の指定文化財で、左肩に大袋を背負い、右手に打出の小槌を持っており、水晶の玉眼を有する忿怒像(ふんどぞう)で、蓮華座(れんげざ)(蓮の葉を伏せた形の台座)の上に立っているのが特徴です。

 布袋は、中国唐時代末に実在した仏僧布袋和尚を神としたものです。布袋の中に入れたものは財宝になったといわれ福の神の一種として信仰を集め、室町時代後期には七福神に組み入れられるようになりました。その姿は、福徳円満な顔で、太鼓腹を露出して、大きな袋を担いでいます。

1.5km  
乗国寺【福禄寿】042   乗国寺(じょうこくじ)は見龍山(けんりゅうざん)覚心院(かくしんいん)乗国寺(じょうこくじ)といい、曹洞宗の寺院です。結城合戦当時(永享12~嘉吉元年1440~1441)福厳寺(ふくごんじ)という寺が、常陸・下野・下総の三ツの国の国境の鬼怒川と田川にはさまれた所にありました。合戦後の宝徳元年(1449)結城家13代成朝(しげとも)公が、松庵宗榮(しょうあんしゅうえい)禅師を招いて、結城家12代持朝(もちとも)公の菩提寺(ぼだいじ)として再建し、寺名を三国山(みくにざん)福厳寺としました。
  その後、文明11年(1479)の大洪水で伽藍(がらん)(寺院の建物)を流失しましたが、結城家14代氏広(うじひろ)公が、現在地に寺名を見龍山覚心院乗国寺に改称して再興しました。
  この寺院の福神は福禄寿で福と禄と長寿を授けるという中国の福神で、姿は長頭で経巻を結んだ杖を持ち、多くは鶴を従えています。
0.4km  
東結城駅  

 

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