福井市(福井県)【友好都市盟約書締結:2002年4月13日】
1.友好都市締結の経緯
結城藩18代藩主の結城秀康公は関ヶ原の戦いの後、徳川家康から越前北庄68万石に加増、移封されました。秀康公は消失していた北庄城(現:福井城)を再建するとともに、北荘藩(福井藩)初代藩主として城下町の建設に取組み、現在の福井の基礎となるまちづくりを行ったとされています。このような歴史的なつながりから、2市間では市民レベルでの交流が行われてきました。
こうした中、平成12年12月に民間組織である福井結城会が福井市で発足、平成13年7月には結城秀康公の越前入国400年という記念の年を迎えるなど、両市の交流の機運の高まりを受け、平成14年4月13日に友好都市としての盟約が締結されました。
2.福井市の概要
・人口 258,188人(令和4年11月1日現在)
・面積 536.41㎢
・位置 北緯36度03分51秒、東経136度13分10秒
・市の木 マツ
・市の花 アジサイ
●福井市ホームページ(新しいウインドウで開きます)
福井市は九頭竜川、足羽川、日野川の三大河川により掲載された福井平野に発達してきました。弥生時代には既に一部で農耕も可能となっていたと言われています。
中世には現在の市街地の南東にある一乗谷に居を構えた朝倉氏が5代103年間にわたり、戦国大名として広大な地域を支配しました。当時の一乗谷は小京都と呼ばれるほどの栄華を極めたといわれていますが、その城下町は天正元年に焼失したままの姿を今日までも残し、日本中世において非常に貴重な遺跡として国の特別史跡、庭園が特別名勝、出土品が重要文化財という国の三重指定を受けています。
市の中心部は室町時代の頃には北庄(きたのしょう)と呼ばれ、徳川家康の天下平定後はその次男である結城秀康公が68万石の城主として入封しました。北庄の名は3代藩主の忠昌の時代に「福居」となり、後に「福井」と改められました。
明治22年に市制が施行され、福井市となりました。以来、福井県における政治、経済、文化の中心都市として発展を続けています。
これまでの間、昭和20年7月の空襲、昭和23年6月の福井大震災、平成16年7月の福井豪雨など、幾度もの災禍を受けましたが、市民の不屈の精神によって今日の「不死鳥のまち福井」を築き上げてきました。不死鳥は福井市市民憲章「不死鳥のねがい」をはじめ、福井市民及び福井市のシンボルとなっています。
令和6年春には、現在石川県金沢市止まりとなっている北陸新幹線が福井駅も経由し敦賀まで開通する予定となっており、初の福井開業に向け機運の高まりを受けたまちづくりを進めています。
3.市章・シンボルマーク
<市章>
市の紋章は、福井城内にあった「福ノ井」の井げたに福井の旧称「北ノ庄」の北を組み合わせ、古きを生かし、新しい時代への発展と繁栄を図案化したものです。
<シンボルマーク>
福井市のシンボルである不死鳥(フェニックス)が翼を広げた様子をシンボライズしたものです。福井市の花「あじさい」をイメージした背景のなか、今飛び立とうとする不死鳥が、「やさしさと活力のまち」を目指して未来にはばたく福井市を表現しています。
4.啓蒙地区との交流
地区の概要
市中心部より東へ約3キロメートルに位置し、清らかな流れの芝原用水と、雑木林に囲まれた丸山古墳を代表として構成される、田園風景が広がる地区です。一方で、国道8号線や416号線、市道環状東線、旧勝山街道等の道路が通り、えちぜん鉄道勝山線が走る、交通の便に恵まれた住宅地としての性質も持ち合わせています。近年は、主要道路沿線に大型の量販店やマンション等が進出するなど、昔からの農村地区の市街化が進むとともに、若い世代の流入により、未就学児数が年々増加傾向にもある活力あふれる地域です。
啓蒙の地名は小学校名に由来すると言われており、「童蒙の知能と徳を磨く、扉を開いて文明の光を入れる」という意味で啓蒙と名付けられたとされています。
交流事業について
啓蒙地区では、地区内を流れる芝原上水(芝原用水)が結城秀康公の命により掘削され、それが城下の武家や町人の生活用水となり、地区の発展に繋がったという歴史を大切にされており、本市との間で深い相互交流が行われてきました。
地区と本市の間では、友好都市としての盟約締結以前から民間レベルで交流が行われてきた背景がありましたが、盟約締結後は更に深く活発な交流が行われています。
地区では、平成23年に劇団「啓蒙キッズ」を結成し、結城秀康公の功績を伝える劇を創作のうえ、毎年地区文化祭において披露されています。構想、脚本から美術、監督に至るまで、すべて地区住民の方々によるオリジナルの市民劇で、本市から市民訪問団が派遣された際にはご披露いただき、観覧しています。同様に、啓蒙地区からも本市での市民劇公演に合わせて地区住民の方が来結されており、劇を観覧されるなど、定期的にお互いの市を訪問し、親睦を深めています。
また、平成14年からは両市の小学生交流として、子ども親善大使の相互派遣事業が行われており、お互いの地域を訪問し、そこでの宿泊や様々な経験を通じて、両市の歴史的・文化的なつながりについて学んでいます。
このような交流事業は、地区に設置されている「啓蒙公民館」が中心となり、企画・実施されてきました。