連載 水野家物語 -結城を治めた、二つの水野家-(令和5年5月号~)

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最終回「維新後の水野家」

 幕末の騒乱後、新しい時代を迎えた日本。武士たちは、大名は華族、藩士は士族という身分になり、明治2(1869)年の「版籍奉還」により旧藩主は藩知事となり、結城藩では最後の藩主である水野勝寛(禊之助)(かつひろ・けいのすけ) が務めます。その後、明治4(1871) 年の「廃藩置県」によって結城藩は「結城県」となり、170年に及んだ結城水野藩による統治は終焉を迎えました。
 勝寛は明治6(1873) 年に18歳で亡くなり、家督は紀伊新宮水野家の水野忠愛(ただよし)が継ぎ、明治17(1884)年には子爵(ししゃく)に列しました。忠愛の死後、紀伊新宮藩主の水野忠幹(ただもと)・五男の直(なおし)が子爵位を継ぎます。直は、陸軍政務次官を務め、また貴族院議員の子爵互選に4回も当選し、院内会派の研究会の幹部として活躍しました。
 直は、結城家が残したと伝わる埋蔵金を探すため、結城城跡の発掘を行います。残念ながら埋蔵金は見つかりませんでしたが、現地に「みかつき橋」という石造りの橋を建てました。直は昭和4(1929)年、50歳で急死します。家督は長男の勝邦(かつくに)が爵位を継承しました。勝邦は外務省調査員や貴族院議員、大学教授として活躍し、生涯をとおして中国に関する研究を行いました。
 水野家の歴史と伝統は、子孫たちによって継承され、武家の名門として今も残ります。

みかつき橋城跡歴史公園の南側に現存する「みかつき橋」

 

第9回「結城戦争 ~維新に飲まれた男たち~」

 慶応3(1867)年10月14日、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が政権を朝廷に返上(大政奉還)したことにより、日本国内は大きく揺らぎ、全国の各藩に大きな影響を与え、混乱を極めます。結城藩10代藩主の水野勝知(かつとも)は、幕末期の文久2(1862)年に、二本松藩丹羽家から水野家へ養子となり藩主となった人物で、日頃より水野の家柄に対してかなりの重責を感じていたようです。
 勝知は、旧幕府方につく(佐幕派)か、新政府側につく(恭順派)か判断に悩み、決めかねていましたが、水野甚四郎をはじめとする江戸詰家老たちによって、勝知は「佐幕派」の態度をとりました。これに対し、結城に残る家臣達は「恭順派」の態度を示したため、藩内は対立し、結城戦争と呼ばれる戦いにまで発展してしまいます。
 この戦いは藩内だけではなく、新政府軍や旧幕府軍も係わる戦いとなりましたが、最終的には新政府軍により鎮静化されました。この戦いにより、結城城は炎上し、佐幕派の主な家臣たちは処刑・処罰され、恭順派であった家老の小場兵馬は責任を取るため孝顕寺境内で自刃します。
 大きな時代の流れに翻弄された藩士達は、藩を守るためにそれぞれの立場で戦いました。その 結果、多くの犠牲を出し、結城は深い傷を負うこととなりました。

水野勝知・水野甚四郎・小場兵馬の墓水野勝知の墓(孝顕寺)、水野甚四郎の墓(光福寺)、小場兵馬の墓(戸野町地内)

 

第8回「武士のお仕事」

 江戸時代の大名(藩)は、江戸城下に屋敷を建て、領地と江戸を行き来する「参勤交代」を行うことが義務づけられていました。また、江戸城へ登城することや江戸城内で行われる儀式に参列することが最大の公務でした。
 それ以外にも、大名たちはさまざまな仕事を幕府から任命されています。結城藩は、江戸城において、一橋門や田安門、半蔵門などの警護に就きました。また、歴代藩主が多く務めたのは、大坂城の警護を担う「大坂加番(かばん)」で、与力米が1万石も支給されるため、結城藩にとって重要な仕事でした。そのほか、将軍の日光東照宮参拝の責任者である「日光祭礼奉行」を務めた藩主もいました。
 藩政は、藩主のもとに年寄・家老の「重役」を中心に、軍務は番頭などの「番方(ばんかた)」、藩の政務や家事は町奉行や勘定奉行、目付などの「役方(やくかた)」、藩主の私生活は側用人などの「奥(おく)」が担当しました。
 江戸時代後半になると、幕府の財政はひっ迫し、その影響は地方にも及びました。全国の諸藩で、藩校開設や土地改革、倹約など、難局を乗り切るためにさまざまな工夫を凝らしています。結城藩では、藩政改革として江戸屋敷や城内において倹約を進め、天保年間には藩校「秉彝館(へいいかん)」を創設し、藩の基礎強化を図りました。

江戸城の田安門水野家が警護を行っていた江戸城の田安門

 

番外編「水野家ゆかりのまち交流宣言10周年」

 今回は水野家物語番外編として、現在に続く水野家の縁をご紹介します。江戸時代の大名は現代のサラリーマンと同じく、幕府の命令があればどこへでも領地を移らなければなりませんでした。これを「転封」(てんぽう)といい、家臣やその家族を含めた大規模な引っ越しで、大名家の軍事力を弱める目的があったとも言われています。徳川家康の実母の出である水野家といえどもこの命令には逆らえず、日本全国を異動しています。
 今から10年前、かつて水野家が治めた各地の自治体7市町(愛知県刈谷市、岡崎市、東浦町、奈良県大和郡山市、和歌山県新宮市、広島県福山市、結城市)が集まり、「水野家ゆかりのまち交流宣言」をおこないました。これは、水野家の縁で結ばれた自治体が相互交流をとおし、歴史と文化を大切にしたまちづくりを進め、互いに水野家ゆかりのまちとしての魅力を高めて次世代に継承していこうという宣言です。これをきっかけとして、刈谷市とは毎年、「刈谷わんさか祭り」と「祭りゆうき」へお互いに参加をするなど交流を続けています。
 そして今年10月、再び水野家発祥の地である刈谷市に各首長が集い、改めて「宣言」をおこなうことで、今後も交流を続けていくことを確認しあいました。

水野家ゆかりのまち交流宣言10周年ゆかりのまち首長が交流を宣言

 

第7回「ゆでまんじゅうと殿様」

 本市を代表する銘菓、ゆでまんじゅう。江戸時代末期に、結城の町に疫病が流行したとき、当時の殿様が疫病の厄払いのため神輿を奉納した際、民衆に振る舞ったのが始まりと言われています。その後は、健田須賀神社の夏季大祭の日に各家庭で作り供え、無病息災・五穀豊穣を願うようになりました。
 ところで、この時の殿様はだれだったのでしょうか。まず、江戸時代末期に江戸で流行した疫病を見てみると、安政5(1858)年にコレラ、文久2(1862)年に麻疹が大流行し、多くの犠牲者が出ました。結城での状況は現在不明ですが、影響は受けていたと考えられます。そして、この時代に藩主であった殿様を見てみると、8代・水野勝進(かつゆき)、9代・勝任(かつとう)が該当します。
 江戸時代の疫病対策は、集落の辻にわら人形や大わらじなどを置き、牛頭天王(ごずてんのう)を祀るなど、疫病が侵入してこないよう神に祈ることでした。健田須賀神社は江戸時代、「牛頭天王社」とも呼ばれていました。当時の殿様も、結城の守り神である牛頭天王へ神輿を奉納し、そのご利益をゆでまんじゅうに乗せて振る舞うことにより、領民を疫病から守ろうとしたのでしょう。

ゆでまんじゅう結城名物 ゆでまんじゅう

 

第6回「水野織部がみた結城町」

 水野家再興後の元禄16(1703)年、藩主の水野勝長(かつなが)は、古城地と結城の城下町の調査を、家老である水野織部長福(おりべおさもと)に命じます。
 織部一行は、同年2月9日早朝に江戸の藩邸を出発し、翌日の午後4時には小山の宿に到着します。その後結城へ向かい、11日から14日にかけて古城地において屋敷割や橋の位置、朱印地などの見分を行います。15日には町をまわり、名主や組頭と積極的に意見を交わしました。16・17日にはさらに古城地の見分を続け、18日に帰途に就く予定でしたが暴風雨のため延期となります。天候が回復した翌19日早朝に結城を出発し、20日には江戸へ帰着。藩主勝長へ報告し、役目を見事に果たします。
 この間、織部は結城の町の清潔さと人々の気風、名主たちの働きぶりに大変感心しています。その様子を織部は、結城の人々は健なる人たちであると言われていたことを思い出し、結城町の人々の暮らしぶりと賑わいに喜び、町名をよみ込んだ歌を残しました。
 また、結城出発の時の心境を、「わずかながらも滞留したりけれはなごりおしきこゝちす」と記しています。短期間の結城滞在であったにもかかわらず、結城の町と人々に対して、深い愛着をいだいたようです。

織部著「結城使行 全」に書かれた町絵図織部著「結城使行 全」に書かれた町絵図

 

第5回「水野宗家の復興、いざ結城へ」

 元禄11(1698)年、福山藩5代藩主・勝岑が病気によりわずか2歳で亡くなり、跡取りを失い断絶した水野宗家は、福山藩10万石の所領と福山城を幕府に押収されてしまいます。しかし、初代藩主であった水野勝成の功績と、徳川家康の実母である於大の方の実家であることが考慮され、勝成のひ孫・勝長に能登国(石川県)1万石が与えられ、水野家の再興が許されました。
 水野家再興後の元禄13(1700)年、勝長は結城をはじめとする下総国・上総国1万石の転封を命ぜられます。翌年には、下野国芳賀郡(栃木県)、常陸国真壁郡など3千石が加増され、さらに元禄16(1703)年1月9日に5千石の加増を受け、同時に新城の建造が認められます。同月28日には、徳川綱吉から領知朱印状が出され、石高は1万8千石となり、ついに城主格の大名となったのです。
 さて、新しい領地である結城に移るためには、町や人々の様子を知る必要があります。そこで勝長は、家老である水野織部長福(おりべおさもと)に結城城跡と結城の城下町の調査を命じます。その調査は「結城使行 全」という本にまとめられており、江戸時代の結城の様子が記録されています。次回は、織部長福からみた江戸時代の結城の様子を見ていきます。

徳川綱吉からの領知朱印状
徳川綱吉からの領知朱印状

 

第4回「水野家の繁栄、そして断絶」

 水野忠重(ただしげ)の跡を継ぎ、当主となるのが水野勝成(かつなり)です。勝成は永禄7(1564)年に生まれ、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いや大坂の陣などで活躍し「鬼日向(おにひゅうが)」と呼ばれるほどの勇猛果敢な武士として知られています。
 勝成は、元和5(1619)年に改易された福島正則の所領であった、備後国(広島県)東部へ10万石をもって入府します。そして、同国深津郡野上村(広島県福山市)に城を築き、城下町を整備して福山と名付け、勝成を初代藩主とした福山藩が誕生しました。さらに勝成は、城下町の上水道整備や寺社整備、干拓など領内の整備を積極的に行い藩政の基礎を築きます。
 慶安4(1651)年に勝成は亡くなり、賢忠寺(けんちゅうじ)に葬られました。その後、勝成は福山城外の聰敏(そうびん)神社に祀られました。勝成の死後、水野氏は新田や塩田開発、木綿やい草の栽培奨励など藩政に力を入れましたが、4代藩主勝種(かつたね)が元禄10(1697)年10月に37歳で没し、わずか1歳の勝岑(かつみね)が藩主となりました。しかし、翌年、将軍に拝謁するため江戸に向かう途中で勝岑が病気によりわずか2歳で亡くなります。このことにより、水野宗家は無嗣断絶となり、福山藩領は幕府へ没収されることとなります。

水野勝成の墓水野勝成の墓(福山市・賢忠寺)

 

第3回「武家の名門・水野氏」

 水野氏は、第56代・清和天皇を祖とする源氏「清和源氏(せいわげんじ)」を称する武家で、鎌倉時代から続く武家の名門です。源頼朝に仕え、鎌倉幕府より尾張国(現在の愛知県西部)知多郡英比郷(あぐいごう)小河の地頭職に任命されたことから、「小河(小川)」と称しました。後に、尾張国春日井郡水野郷に一時期住み、「水野」と称するようになったといわれています。
 戦国時代には、水野忠政(ただまさ)の時に緒川城や刈谷城を中心に、尾張国南部の知多半島付近から三河国(現在の愛知県東部)付近まで勢力を拡大し、今川氏や松平氏と同盟を結び、地位を固めていきます。しかし、忠政の次男である信元(のぶもと)が当主となると、織田氏との同盟を強固にします。信元は、織田信長と徳川家康の同盟(清州同盟)を仲介し、三方ヶ原の戦いや長島一向一揆に参陣するなどの活躍を見せましたが、信長から武田勝頼との内通を疑われて殺害され、水野氏は一時断絶します。
 断絶後、信元の弟である忠重(ただしげ)を当主として水野氏は復興し、織田信雄(のぶかつ)・豊臣秀吉の家臣となり、秀吉の死後は徳川家康に従います。また、水野氏は徳川家康の実母である「於大の方(伝通院)」の実家にあたります。於大の方の父は水野忠政で、その忠政の孫である勝成(かつなり)の系譜が、結城水野家となります。

刈谷城模型刈谷市歴史博物館にある刈谷城(江戸時代中期)の再現模型

 

第2回「山川水野家と山川藩」

 慶長6(1601)年、山川朝貞が結城秀康に従い越前へ転封した後、山川地域は江戸幕府が直接治めることとなり、代官頭の伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)の支配下となります。その後、慶長14(1609)年に、徳川家康の甥にあたる松平定綱(さだつな)が大名となり、1万5,000石で山川藩が起こりますが、元和2(1616)年に常陸国下妻藩へ3万石で転封となり、同年9月に家康の従弟にあたる水野忠元(ただもと)が領主となり、山川藩は3万5,000石の藩となります。
 忠元は、徳川秀忠へ仕え、大坂夏の陣での戦功により大名となります。山川入府後は、山川綾戸城を修築し、城下町の建設に尽力を尽くすなど藩政の基礎を固めましたが、元和6(1620)年に忠元は45歳で亡くなり、この地に建立された「万松寺(ばんしょうじ)」へ葬られました。
 2代藩主の忠善(ただよし)は、2代将軍秀忠・3代将軍家光に仕え、藩の発展を図ろうとしましたが、寛永12(1635)年8月に、駿河国田中城(現在の静岡県藤枝市)への転封を命じられ、山川藩は廃藩となりました。
 山川の地を去った後、駿河国(静岡県)や三河国(愛知県)、肥前国(佐賀県)などへ転封をしますが、歴代当主たちは万松寺を菩提寺としました。建物は江戸時代末期に焼失しましたが、現在も墓石が残り、近世大名の姿を垣間見ることができます。

山川水野家墓所(高画質版)山川水野家墓所(山川新宿地内)

 

第1回「結城を治めた、二つの水野家」

 下総結城氏18代の結城秀康は、関ヶ原の合戦の際、宇都宮に陣を張り、会津の上杉氏の動きを抑えた功績により、慶長6(1601)年に越前国北ノ庄(現在の福井県福井市)へ転封となりました。秀康の越前転封に従い、家臣たちの多くは結城の地を離れることとなります。
 鎌倉時代から戦国時代まで、現在の結城市の範囲は、下総結城氏と山川氏が治めていました。秀康の越前転封後、下総結城氏の領地の多くは江戸幕府が、山川氏の領地は水野氏が治め、「山川藩」が起こります。しかし、山川地方を治めた水野氏はすぐに転封し、山
川地方は壬生藩や幕府の領地となりました。江戸時代の中頃になると、再び水野氏が結城市北部の領主となり、「結城藩」が起こり、幕末まで続きます。
 江戸時代には、水野氏が結城を治めたこととなりますが、江戸時代初期に山川地方を治めた水野氏は、「山川水野家」と呼ばれる、水野氏の分家です。江戸時代中頃から幕末まで結城北部を治めた水野氏は、「結城水野家」と呼ばれる、水野氏の本家です。
 今年度は、二つの水野家の物語をお伝えしていきます。

結城水野家の家紋

結城水野家の家紋
(丸に抱き沢瀉(おもだか))

山川水野家の家紋

山川水野家の家紋
( 水野沢瀉(おもだか))

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