連載 結城家物語 -四百年の歴史-(令和4年5月号~)

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第10回(最終回)「秀康(ひでやす)、越前へ行く」

 慶長5(1600)年7月24日、会津の上杉景勝を討つため、小山に布陣していた徳川家康のもとに、石田三成が挙兵したとの知らせが届きます。徳川家の重臣たちは小山に集結し軍議を開き、三成と戦うことを決めます(小山評定(おやまひょうじょう))。秀康は、宇都宮城に陣を敷き、最上氏や伊達氏とともに、上杉氏を抑えることとなります。
 関ヶ原の戦いは、家康の勝利に終わります。秀康は、恩賞として結城10万石から越前国北ノ庄(えちぜんのくにきたのしょう、現在の福井県福井市)67万石へ加増され、国替えとなりました。慶長6(1601)年に秀康や晴朝、多くの家臣たちは結城を去り、新たな領地で城の築城や城下町の整備などに取り掛かります。しかし、秀康は慶長12(1607)年に34歳という若さで亡くなりました。晴朝は、秀康の子を養子にして結城の名を残そうとし、また結城へ帰ることを願い続けます。しかし、その願いは叶わず、慶長19(1614)年に晴朝は81歳の生涯を終えました。
 秀康亡き後、秀康の子たちは、結城氏ではなく松平氏を名乗ります。こうして、平安時代末から江戸時代初期まで、約400年間にわたり北関東の名門武士として存在した「下総結城氏」の名は消えました。しかし、結城氏の歴史・伝統は多くの人たちよって守り伝えられ、今の私たちに受け継がれています。

結城秀康肖像画結城秀康肖像画(福井県福井市 運正寺所蔵)

 

第9回「晴朝(はるとも)と秀康(ひでやす)」

 永禄2(1559)年、結城氏17代として家督を継いだ晴朝は、天正18(1590)年までに13回の合戦を行いました。それは、結城氏が戦国時代を生き残るための戦いでした。
 晴朝は、小田氏や佐竹氏、小山氏、宇都宮氏、多賀谷氏らと戦い、支城を失いながらも本領である結城を守り抜きます。また、このころの関東地方は、越後国(新潟県)の上杉謙信や相模国(神奈川県)小田原の北条氏政による侵攻で混乱を極めており、関東の武将たちは、状況に応じて上杉と北条の味方になり家名存続に苦心していました。
 天正18(1590)年、全国統一を目指す豊臣秀吉は、北条氏を攻める大規模な戦闘を行います(小田原征伐)。晴朝は、北条の手に落ちていた小山城を攻め落とし、小田原へ参陣します。その際、秀吉から養子をもらいたいと願い出て、養子を迎え入れることとなりました。その養子こそ、徳川家康の次男である羽柴秀康です。
 晴朝は、秀康を養子として迎え入れたのち、中久喜(小山市)の栃井城へ隠居し、家督を譲り、秀康が結城氏18代当主となりました。
 秀吉と家康という超有力大名の子を養子に迎え入れ、結城氏は安泰と思われましたが、時代の波は、晴朝をはじめとする戦国大名たちの運命を飲み込んでいきます。

結城晴朝肖像画結城晴朝肖像画(孝顕寺所蔵)

 

第8回「結城家の中興と最盛期」

 1481(文明13)年、3歳の政朝(まさとも)が15代として結城家を継ぎます。幼い当主に代わり、重臣多賀谷和泉守(たがやいずみのかみ)が結城家を取り仕切っていましたが、結城家当主のような振る舞いで、評判は悪かったようです。
 1499(明応8)年、政朝は多賀谷家植(たがやいえたね)と協力して和泉守を討ち、実権を取り戻すことに成功しました。その後政朝は、宇都宮氏との戦いに勝利し、下野国中村(現在の真岡市北西部)の旧領を奪還し、結城家の勢力を回復させます。また、水谷氏・多賀谷氏・山川氏と協調し、北下総から常陸西部にわたる勢力圏を形成しました。後に政朝は、「結城中興の祖」と呼ばれました。
 政朝の後に結城家を継いだのは、16代・政勝(まさかつ)です。政勝が経験した5度の合戦の中でも、代表的な合戦が海老島合戦(えびがしまかっせん)です。1555(弘治(こうじ)元)年、政勝は小田氏治(おだうじはる)を討つため、相模小田原城主北条氏康(ほうじょううじやす)に援軍を求め、1556年に援軍が派遣されます。また結城家と同盟関係の小山氏・真壁氏・多賀谷氏・水谷氏・山川氏も参陣します。氏治は、婚姻関係の佐竹氏・宇都宮氏から支援を得られず、窮地に立たされます。両者は海老島城(現在の筑西市)付近で激突、結城氏が勝利し、氏治は土浦城へ落ちのびます。
 結城家はこの合戦で多くの小田領を手に入れ、領地は最大となりました。また、政勝は「結城氏新法度(しんはっと)」を定め、家臣の結束を高めて領地支配の安定を図りました。

結城政朝肖像画(孝顕寺所蔵)結城政朝肖像画(孝顕寺所蔵)

 

第7回「結城家の再興」

 嘉吉(かきつ)元(1441)年、結城城が落城し結城氏は断絶、結城合戦が終わりました。その後、結城家再興のため立ち上がるのが結城成朝(しげとも、重朝)です。 成朝は、結城城落城時に家臣の多賀谷彦次郎(たがやひこじろう)に抱かれ脱出し、常陸・佐竹領に隠れていましたが、後に結城を奪回し、新たに鎌倉公方(くぼう)となった足利成氏(しげうじ、足利持氏(もちうじ)の子、永寿王丸(えいじゅおうまる))の元に参上します。成氏は大いに喜び、重朝に「成」の字を授け、重朝は成朝と改名します。成朝は、13代となることを許され、結城家は再興することができました。結城合戦から9年後の宝徳(ほうとく)2(1450)年のことでした。
 成氏と上杉氏の関係性は非常に悪い状態で、関東の武士たちは真二つに分かれるほどの規模でした。その対立のさなか、成朝は寛正(かんしょう)3(1462)年に24歳で亡くなります。 成朝の後を継いだのは、11代氏朝(うじとも)の三男・長朝(ながとも)の子「氏廣(うじひろ)」です。氏廣も成氏に従い行動していましたが、氏廣は文明(ぶんめい)13(1481)年に41歳で亡くなります。その1年後に、成氏と幕府(上杉氏)は和睦します。
 京都や関東の大乱が終わり、平穏が訪れるかと思われましたが、時代の流れはさらなる大乱、「戦国時代」へと突入していきます。

結城氏廣の位牌(乗国寺所蔵)結城氏廣の位牌(乗国寺所蔵)

 

第6回「結城合戦」

 室町幕府6代将軍の足利義教(よしのり)と、鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)は険悪な関係でした。永享(えいきょう)11(1439)年 、幕府は関東管領の上杉憲実(のりざね)へ命じて持氏が謹慎する鎌倉永安寺を攻め、持氏は自刃します。これを「永享の乱」と言います。
 永享の乱の後、持氏遺児の安王丸(やすおうまる)・春王丸(はるおうまる)は橋本城(現在の桜川市)で挙兵し、結城城へ入城します。結城氏11代の氏朝(うじとも)は、かつての公方(くぼう)・持氏の遺児の頼みは断れず、幕府と敵対することになります。さらに、旧持氏派の武士たちも結城城へ結集し、結城合戦は結城氏だけではなく、関東武士たちを巻き込んだ大規模な抗争となりました。
 永享12(1440)年 4月、ついに合戦が始まります。幕府軍は結城城に容易に近づけず、持久戦となりますが、嘉吉(かきつ)元(1441)年 4月16日、幕府軍の総攻撃を受け、ついに結城城は落城しました。氏朝は嫡男の結城氏12代・持朝(もちとも)と「さじき塚」(観音町)で自刃し、首は京都六条河原で晒されました。また、安王丸・春王丸は脱出しましたがすぐに捕らわれ、京都へ護送中に金蓮寺(きんれんじ、現在の岐阜県)で斬首され、首だけが京都へ送られました。
 初代・朝光(ともみつ)以来250余年、12代にわたる関東の名門武士・結城氏の家系は途絶え、結城合戦は終わりました。

結城城跡(連載 結城家物語 第6回)結城合戦の舞台となった結城城跡

 

第5回「結城直朝(なおとも)と結城七社」

 南北朝の動乱の中であった康永(こうえい)2(1343)年、南朝方の武将である北畠親房(きたばたけちかふさ)のこもる「関城」(筑西市)に対し、北朝方は総攻撃を仕掛けます。このとき、北朝方にくみしていた結城家7代当主・直朝も関城攻略に参戦し、奮闘しました。そして、激しい攻防の末に関城は陥落しましたが、直朝はこの戦いで重傷を負い、その傷が原因となり、19歳の若さで亡くなりました。
 結城直朝は、関城攻略の際に七曜星(しちようせい、北斗七星)に戦勝祈願し、康永2(1343)年に「結城七社」を勧請したといわれています。結城七社は、「牛頭天王(ごずてんのう)」(浦町・今の健田須賀神社)、「住吉大明神」(西の宮・今の住吉神社)、大桑大明神」(小森・今の大桑神社)、「高橋大明神」(小山市高椅・今の高椅神社)、「八幡宮」(小山市上簗)、「大神宮」(小山市中河原)、「鷲宮大明神」(小山市萱橋・今の鷲宮神社)の七つで、特別に遇するようになったものと考えらえています。
 江戸時代になると、このうち八幡宮と大神宮が外され、代わりに「健田社(たけだしゃ)」(下り松・後に浦町)と「神明社(しんめいしゃ)」(神明町)が七社に編入されました。健田社は、元は下り松地内にありましたが、明治時代に須賀神社と合祀され、健田須賀神社となりました。

大桑神社
結城七社のひとつ 大桑神社(小森)

 

第4回「鎌倉時代の結城家当主たち」

 朝光の嫡男である「朝広(ともひろ)」は、朝光が評定衆(ひょうじょうしゅう)を辞任した1235年(嘉禎(かてい)元年)ごろに家督を相続し、2代目当主となったと考えられています。朝広は、検非違使(けびいし)という役職につき功を挙げ、朝光の官位・従五位下(じゅごいげ)を超える正五位下(しょうごいげ)になるなど、鎌倉時代における結城家の全盛期を築きます。この時の結城家は、北条氏一門につぎ、足利氏・二階堂氏・宇都宮氏・八田氏などに匹敵する地位を持っていました。
 朝光の後を見事に務めた朝広は、1274年(文永11年)ごろ、84歳で亡くなりました。3代目は朝広の嫡男の「広綱(ひろつな)」が継ぎます。広綱も足利氏・二階堂氏などとともに検非違使に任ぜられ、幕府の有力御家人に並ぶ地位を保ち、一族の発展に力を尽くしました。しかし、4代目「時広(ときひろ)」が24歳、5代目「貞広(さだひろ)」が21歳と当主が相次いで早くに亡くなり、鎌倉幕府内での地位が揺らぎます。
 鎌倉時代末の1331年(元徳(げんとく)3年)、鎌倉幕府打倒を掲げた後ごだいご醍醐天皇と幕府・北条氏との間で「元弘(げんこう)の乱」が勃発すると、6代目を継いだ「朝佑(ともすけ)」は足利高氏(たかうじ・尊氏)の配下へ入り幕府軍として戦いますが、高氏が後醍醐天皇側に寝返ると、朝佑もこれに従い、幕府軍と戦います。この乱によって鎌倉幕府は滅亡し、時代は室町時代へと移ります。

結城家御廟
結城家歴代を祀る慈眼院(じげんいん)結城家御廟(ごびょう)(小塙)

 

第3回「関東遺老(かんとういろう) 結城朝光(ともみつ)」

 1235年(文暦(ぶんりゃく)2年)、朝光は鎌倉幕府内で執権(しっけん)・連署(れんしょ)に次ぐ重要な役職であった「評定衆(ひょうじょうしゅう)」に、69歳で任命されたものの、わずか1カ月半ほどで辞任しています。朝光は、「自分は短慮で物事にも迷いやすく、是非をわきまえていないので、幕政に意見を挟む資格がない」と言ったとされます。執権の北条泰時(やすとき)は引き留めますが、朝光の意志は固く、そのまま辞任しました。
 1247年(宝治(ほうじ)元年)、幕府内で権力を拡大する北条氏に唯一対抗できるのは、朝光の親友であった三浦義村(よしむら)の子・泰村(やすむら)一族だけでした。そこで、北条氏側の安達氏が三浦氏を挑発し、合戦を起こします。この戦いで三浦氏は敗れ、泰村をはじめ、一族もろとも滅亡しました。 合戦の後、朝光はすぐに鎌倉へ行き、執権の北条時ときより頼へ「私が鎌倉にいたなら、泰村をむざと討たせなかったものを」と涙を流して訴えたといいます。
 この時、朝光は81歳となり、頼朝以来の東国武士(とうごくぶし)の生き残りの御家人で、経験豊富な重臣(ちょうしん)として扱われており、「関東遺老」と呼ばれていました。1254年(建長(けんちょう)6年)2月24日、87歳で生涯を終えた朝光は、「称名寺殿日阿弥陀仏(しょうみょうじでんにちあみだぶつ)」という法名のもと、称名寺で静かな眠りについています。

結城朝光の墓(大)結城朝光の墓(市指定史跡・称名寺蔵)

 

第2回「結城朝光(ともみつ)の活躍」

 平家打倒を目指す源頼朝は、1185年の壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。さらに、1192年には奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし、全国支配をほぼ完成させます。その戦いには結城朝光も参陣し、多くの武勲を挙げています。
 また、戦い以外でも朝光は多くの活躍をします。1195年3月、治承の乱で焼失した東大寺の再建供養に頼朝が参列し、その隋兵(ずいひょう)として朝光も同行します。この再建供養には多くの見物の僧兵が集まり、警備の武士といざこざが起こりました。この騒ぎを梶原景時(かじわらかげとき)が鎮めようとしますが、かえって騒ぎは大きくなってしまいます。
 それを見た頼朝は、朝光に鎮めるよう命じ、朝光は見事その場を治め、人々は朝光の態度や話の見事さ、礼節の正しさに感心しました。「武」と「智」の両者を兼ね備えた、朝光の有名なエピソードのひとつです。

木造結城朝光坐像木造結城朝光坐像(市指定文化財・称名寺蔵)

 

第1回「野木宮(のぎみや)合戦と結城朝光(ともみつ)」

 結城家初代当主の結城朝光(小山宗朝(むねとも))は、下野国南部の領主・小山政光と寒河尼の三男として生まれ、源頼朝に仕えていました。寿永2(1182)年、反頼朝であった常陸国・信太荘(しだのしょう・現在の土浦市南部から稲敷市付近)の領主・志田義広(しだよしひろ)が、下野国の足利忠綱(ただつな)と組み、下野国南部へ攻めてきました。
 頼朝派である小山氏は、志田軍には味方せず、下野の野木宮周辺(現在の野木町付近)で志田軍を襲撃し、合戦が始まりました。この時、頼朝と朝光は鎌倉にいました。朝光は、小山軍の勝利を予言し、的中させました。合戦の恩賞として、朝光は頼朝から下総国(しもうさのくに)・結城郡を領地に与えられ、この時から「結城」と名乗るようになったといわれています。
 そして、結城家18代・秀康(ひでやす)が越前国・北ノ庄(きたのしょう・現在の福井市)に転封(てんぽう)されるまで、約400年にわたり結城の地を治めました。

結城朝光肖像画結城朝光の肖像画(称名寺所蔵)

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