結城秀康(1574年~1607年)
結城秀康肖像画(福井県福井市 運正寺所蔵)
徳川家康の次男、そして豊臣秀吉の養子
結城秀康は、天正2(1574)年、徳川家康の次男として生まれました。母は家康の側室、お万の方(長勝院)、幼名は於義丸、義伊などと称します。織田信長亡き後(本能寺の変・天正10年)、天正12(1584)年に、織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍と羽柴秀吉の間で行われた「小牧・長久手の戦い」の講和により、於義丸は秀吉の養子(人質)として差し出され、羽柴秀康と改名します。
結城家 第18代当主
その後、天正18(1590)年、秀吉が北条氏を攻めた小田原征伐に参陣した結城晴朝は、秀吉の近親者を養子として迎え入れたいと願い出て、これを了承した秀吉は、秀康を結城家への養子として送り出します。こうして、結城秀康が誕生し、17歳にして結城家18代当主となりました。
結城秀康の功績
秀康の結城時代での業績で、特筆すべきものが2つあります。1つは、文禄4(1595)年に結城領の検地を行い(文禄検地)、石高が10万1千石と確定したことです。もう1つは、城の西側に新たに城下町を築いたことであり、慶長3(1598)年に完成したこの町割りは、現在も北部市街地の街並みとして残されています。
結城から福井へ
慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦が起こると、秀康は宇都宮に陣を張り、会津の上杉景勝の動きを封じた功績により、越前・北ノ庄(福井)に68万石に加増されて転封となります。
秀康は、越前入国に際し、家臣団と共に、結城家と関わりの深い孝顕寺などの寺院や有力な町人なども移転や移住をさせており、その華やかな引っ越しの様子は「結城引っ越し」と称され、後世に語りつがれています。
越前に移った秀康は、結城から松平に改姓し、越前松平氏の祖となりました。武勇に優れ、本来ならば2代将軍にもなれた武将は、慶長12(1607)年、病気により34歳の若さでこの世を去りました。