悠久の記憶を伝える遺跡から城下町結城の繁栄へ

  古代の結城地方は、水運の便がよく経済的にも開けていたことが、市内各所に残る遺跡や古墳から知ることができます。大化の改新後、下総の国の一部として結城郡が成立。8世紀前半には結城廃寺や郡衙が造られました。935年には平将門の乱が勃発。結城地方も戦場となり、この地に将門伝説が残されました。

  城下町結城の歴史は、結城朝光の登場で幕を開けます。朝光は、頼朝のそばに仕えて鎌倉幕府の成立を支えた後、結城に館を築いて初代当主となり、以後18代、約400年にわたる結城家の統治を盤石なものとしました。1214年には、浄土真宗の祖・親鸞が常陸国にやってきました。朝光は、親鸞の高弟・真仏を招いて称名寺を開基したと伝えられています。また朝光以来、結城家では代々紬産業を保護育成し、結城紬は諸国名産の一つに数えられました。

  室町時代、11代氏朝が起こした結城合戦で結城氏は敗北し、断絶。しかし戦国時代に再興を遂げ、幾多の合戦を乗り越えて城下町結城のさらなる発展を図ります。しかし、徳川家康が天下をとると18代秀康は越前へ転封を命じられ、結城氏支配は終焉を迎えました。

 

  江戸時代にこの地を統治したのは、徳川家と縁の深い水野家(結城水野家と山川水野家)です。水野忠元は、1615年から1635年まで山川の地を治めました。1700年には水野勝長が能登より入府。その3年後に結城城の再築を許され、結城は城下町としてよみがえりました。結城は江戸経済の大動脈である鬼怒川の要衝にあり、結城紬や農産物の集散地として隆盛を極めました。

  この頃、江戸時代の俳人・画家として有名な与謝蕪村は、1742年に俳人・砂岡雁宕のもとに身を寄せ、結城に約10年間滞在。近在の俳人と交遊し、結城を詠んだ俳句などを多数残しました。また蕪村は、弘経寺に移り住み、墨梅図、桜閣図、山水図などの襖絵を残しました。

  明治時代、結城は養蚕の村、紬の町として歩み始めます。1954年、1町4か村が合併し、結城市が誕生。当時は、紬、桐製品、かんぴょう、皮靴などの産業が盛んで、市街地には問屋が並んでいました。2010年に結城紬がユネスコ無形文化遺産に登録され、国内外に結城市の名を広めています。今も中世城下町の原形をとどめる結城市は、豊かな歴史と文化遺産を守り伝えながら、着実に発展を遂げています。

 

  • P-707
  • 2021年12月15日
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