市指定文化財 史跡(詳細)
記念物の部 -史跡-
1 結城朝光の墓
称名寺の本堂南側に結城朝光の墓と伝わる多宝塔があります。もともと称名寺にあった初代朝光、2代朝広、3代広綱、4代時広の五輪塔は慈眼院結城家御廟に移されたらしく、この多宝塔は朝光から時広までの供養塔ではないかと考えられています。
年代 | 不詳 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和38年10月1日 |
所在地 | 結城市大字結城(浦町) |
所有者 | 宗教法人称名寺 |
2 慈眼院結城家御廟
室町時代に結城氏の居城となった結城城跡の南東に、20基の五輪塔が立ち並ぶ一角があります。そこは、結城氏初代の朝光から16代の政勝までの16人の歴代城主の霊を祀った御廟所で、もとは結城城内にあったものを、天文22(1553)年、政勝が慈眼院を建立して移したものです。
慈眼院は、江戸時代まで乗国寺に属していましたが、今は廃寺となり、小高い丘には結城家御廟が残されました。見事な五輪塔が立ち並ぶ墓の周囲には、土塁や堀がめぐらされ、床面には大谷石が敷きつめられて、往時をしのばせるとともに、そこには結城城主たちの生きた歴史の激流とは裏腹に、悠久の時間が静かに流れています。
年代 | 室町時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和38年10月1日 |
所在地 | 結城市大字結城(小塙) |
所有者 | 宗教法人乗国寺 |
3 保戸塚
直径約25メートル、高さ約4メートルの円墳。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和38年10月1日 |
所在地 | 結城市大字鹿窪 |
所有者 | 個人 |
4 林八幡塚
全長約30メートルの前方後円墳。前方部幅約17メートル、前方部高約4メートル、後円部径約20メートル、後円部高約4.5メートル。周溝幅不明。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和38年10月1日 |
所在地 | 結城市大字林 |
所有者 | 個人 |
5 林八幡塚陪塚
墳丘径約18メートル、高さ約3.5メートルの円墳とされています。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和38年10月1日 |
所在地 | 結城市大字林 |
所有者 | 個人 |
6 備中塚
大字上山川字備中に造られた円墳で、墳丘の大きさは直径67メートル、高さ8.5メートルで、墳丘の周りに掘られた周溝を含めると、直径が115メートルにもなります。これは、市内最大級であるばかりでなく、円墳としては県内でも5本の指に入る大きさです。
墳丘の表面には、鬼怒川から運ばれた川原石が葺かれ、円筒埴輪(土管型の埴輪)が飾られていました。また、墳丘の一番上には死者を埋葬した穴が掘られ、その穴の周囲には粘土が貼られていました。周溝は現在埋まってしまい、畑になっていますが、その形態は当事の周溝の大きさをよく表しています。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和38年10月1日 |
所在地 | 結城市大字上山川 |
所有者 | 宗教法人慈眼寺 |
7 古山八幡塚
(写真準備中)
全長約50メートルの前方後円墳。前方部幅、高さ不明。後円部径約21メートル、高さ約5.5メートルで周溝幅不明。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和38年10月1日 |
所在地 | 結城市大字上山川 |
管理者 | 結城市 |
8 愛宕山塚
前方後円墳とされています。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和38年10月1日 |
所在地 | 結城市大字上山川 |
所有者 | 南宿愛宕神社総代 |
9 浅間塚
市の北端、田川の西側台地上に作られた浅間塚・地神塚・山神塚の3基の古墳が残る松木合古墳群は、主に5世紀後半から6世紀に造られたもので、古くは松木合13塚とも呼ばれ、もともとは13基の古墳が残されていました。
浅間塚は、全長35メートル、高さ5メートルの前方後円墳で、円筒埴輪(土管型の埴輪)が巡らされていました。また、前方部は削られていますが、その際に勾玉や直刀が出土しました。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和38年10月1日 |
所在地 | 結城市大字結城(松木合) |
所有者 | 浅間神社 |
10 地の神塚
地神塚は、古墳群の一番南に造られ、推定直径17メートル、推定高3メートルの円墳です。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和38年10月1日 |
所在地 | 結城市大字結城(松木合) |
所有者 | 個人 |
11 山の神塚
山神塚は、推定直径16メートル、高さ3メートルの円墳で、円筒埴輪や直刀、鉄鏃(鉄製の矢じり)などが出土しました。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和38年10月1日 |
所在地 | 結城市大字結城(松木合) |
所有者 | 個人 |
12 中世武家屋敷跡
山河氏の初代重光は、結城氏初代の朝光の四男として生まれ、その後、結城家より分家して山河家をつくり、その館を現在の東持寺のところに建てました。山河氏は結城氏の家来というよりも独立した武士として活躍し、有力な一族に成長しましたが、豊臣秀吉からは、独立した大名とは認められず、本家の結城家の家臣として、慶長6(1601)年、結城秀康が越前へ国替になったのに伴い、越前へ移っていきました。
山河氏の居館跡の大きさは、南北約195メートル、東西約148メートルの長方形で、堀や土塁は北側や西側の部分で特によく残っており、堀の幅が約5m、土塁の幅が約12メートル、高さが約2メートルになります。南側の山門が館の大手門と考えられ、ここから南へまっすぐのびる道を「馬場(ばば)」といい、馬術の練習や流鏑馬などを行いました。山河氏は代々ここを居館としていましたが、伝承によると、戦国時代の永禄8(1565)年、山河沼の東岸に綾戸城を築いて、移っていったといいます。
現在の東持寺は、文亀3(1503)年、上山河の原の地に建てられたものが、江戸時代の寛永3(1626)年、現在地に移されたもので、毎年、春には境内のたくさんの梅の木が花をつけることから「うめでら」とも呼ばれ、多くの人々が訪れます。
年代 | 鎌倉時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和39年9月1日 |
所在地 | 結城市大字上山川 |
所有者 | 宗教法人東持寺 |
13 玉日姫の墓
浄土真宗の開祖である親鸞聖人の側室玉日姫の墓です。墓石の傍らにある島地黙雷の撰文によると、玉日姫は関白九条兼実の七女で、18歳で親鸞聖人の妻となり、越後に流される親鸞聖人を追い、侍女の白川局とともに結城に来ました。その後、親鸞聖人が京都に帰ってからも玉岡の地に草庵をつくり、親鸞の教えを布教しますが、建長6(1254)年、69歳で亡くなり、ここに葬られたということです。
現在残るこの墓石は、近世になって再建されたもので、宝篋印塔と呼ばれるものです。また、参道の入り口にある案内石のそばには、以前「白川橋」と呼ばれる土橋がありました。このあたりは玉日姫に従って結城に来た白川局の屋敷があった場所と言われています。
年代 | 江戸時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和39年9月1日 |
所在地 | 結城市大字結城(玉岡町) |
所有者 | 宗教法人称名寺 |
14 結城城跡
結城城は、室町時代に築かれた平城で、慶長6(1601)年、結城18代秀康が越前(福井県福井市)に国替えになるまで結城氏の居城でした。その後、幕府の直轄地となり、城は壊されましたが、能登(石川県)から転封してきた水野勝長が、元禄16(1703)年に城を再建し、以後明治維新にいたるまで水野氏の居城となりました。
結城城は、北西から南東にかけて長い長方形をしており、長さ約660メートル、幅約300メートルの大きさで、江戸時代のお城のような石垣や外堀はありませんでした。城の中は、幅約20メートル、深さ約6メートルの内堀によっていくつかの曲輪(くるわ)と呼ばれる区域に分けられ、曲輪は木橋や土橋で結ばれていました。
結城城は、守るに易しく、攻めるに難しい要害堅固な城で、室町時代の結城合戦の際には、幕府軍を相手に1年間にわたって篭城できたほどです。
年代 | 室町時代~江戸時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和39年9月1日 |
所在地 | 結城市大字結城 |
管理者 | 結城市ほか |
15 砂岡雁宕の墓
元禄時代、江戸では芭蕉によって大成された「俳諧」という文芸が流行しました。俳諧とは、しゃれや機知に富んだ連歌で、五・七・五の発句、二番目の七・七の脇句を次々と読み続けるものです。俳諧は結城地方でも盛んに詠まれるようになり、数多くの俳人が生まれました。中でも砂岡雁宕は、結城の生んだ最も優れた俳人の一人です。雁宕の父・我尚、祖父・宗春も優れた俳人でした。
雁宕は江戸に出て、早野巴人の門下に入りました。後に、与謝蕪村も巴人の門下に入り、同門となります。巴人の死後、雁宕は結城へ戻り、早見晋我らと活動を続けましたが、やがて、蕪村も雁宕を頼って結城へと来たのです。
雁宕は、1761年、常陸・下野を旅して、優れた俳諧紀行文『雫の森』を著し、1764年には奥州の旅に出て、中尊寺で詠んだ次の句の句碑が、現在弘経寺に建立されています。
古寺や 霧の籬(まがき)に 鈴の音
年代 | 江戸時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和39年9月1日 |
所在地 | 結城市大字結城(西町) |
所有者 | 宗教法人弘経寺 |
16 源翁和尚の墓
源翁和尚は、南北朝期の曹洞宗の僧で、室町時代の応安4(1371)年には、結城家8代直光の招きで結城を訪れ、奈良時代に律宗の寺として創建されたといわれる安穏寺を禅宗の寺に改めて開山しました。
この源翁和尚は、那須で悪い煙をふきあげて人や鳥たちに害を与えていた殺生石を二つに割り、石の中にいた悪霊を成仏させた人物として知られており、このことから石を砕いたりする槌を「げんのう」と呼ぶようになったというエピソードを持つほど親しまれた僧侶です。
また、源翁和尚が使用したと伝わる 数珠と 払子(ともに県指定文化財)が今も安穏寺に残されています。
年代 | 不詳 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和39年9月1日 |
所在地 | 結城市大字結城(玉岡町) |
所有者 | 宗教法人安穏寺 |
17 仙太郎稲荷塚
前方後円墳式の古墳で、全長29メートル、高さ3メートル、円径10メートル20センチ、前方部は長さ7メートル、幅4メートルとなっており、やや東南向きで墳丘は全面に小笹や杉、欅、椿等が群生しています。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和39年9月1日 |
所在地 | 結城市大字結城(曽我殿台) |
所有者 | 宗教法人華蔵寺 |
18 庚申塚
全長20メートル、円径6.5メートル、高さ3メートル、前方部の長さが4メートル、幅4.5メートルの前方後円墳で、墳丘の全面に小笹が密生し、諸所に杉・欅等が茂っています。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和39年9月1日 |
所在地 | 結城市大字結城(曽我殿台) |
所有者 | 個人 |
19 稲荷塚
全長約40メートル、前方部幅約20メートル、後円部径約20メートル、後円部高約3.5メートルの前方後円墳。
横穴式石室より直刀が出土したと伝えられています。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和39年9月1日 |
所在地 | 結城市大字北南茂呂 |
所有者 | 個人 |
20 山川綾戸城
綾戸城は山川氏の戦国時代の居城です。永禄8(1565)年に上山川にある山川氏居館跡(現東持寺)からここに移り、城を築いたといわれていますが、天慶の乱(938~940年)のときには、平将門がここに砦を構えたという伝承もあり、山川氏が本城として移る前は砦であったかもしれません。
西から南、東にかけては、もとは小舟でもなければ通れないような沼地で、山川沼と呼ばれる低湿地帯が広がっていました。城は北から突き出された台地の先端に築かれていましたが、現在は畑や宅地に利用され、その遺構はほとんど残っていません。ただ、一ヶ所だけ山川新宿に綾戸城の土塁と言われる部分が残されています。
この城は、南から見れば広い湿地帯に囲まれた天然の要害ですが、北からの攻撃には弱く、山川氏は敵からの攻撃を防ぐために、三重、四重の堀と土塁を築きました。山川氏は北に位置する結城氏とはきわめて密接な同盟関係にあったため、北には脅かされることがなく、支城をもつ必要もありませんでした。また、堀や土塁は入念に築かれていたと考えられ、西から東へと城を取り囲む低湿地の規模といい、城全体の大きさといい、国人山川氏の本城にふさわしい壮大なものでした。
年代 | 戦国時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和42年2月9日 |
所在地 | 結城市大字山川新宿 |
所有者 | 宗教法人結城寺 |
21 和尚塚
公達に残された和尚塚は、以前は円墳と考えられていましたが、平成2年に実施された県道結城野田線バイパス工事に伴う発掘調査の結果、方墳であることがわかりました。大きさは東西21.7メートル、南北24.8メートル、高さは5.8メートルですが、現在は墳丘の裾の部分が削られているため、本来は一辺が29メートル以上あったと考えられます。発掘調査では、古墳の周溝が方形に巡らされていることも確認されました。しかし死者を埋葬した主体部は未調査のため、詳しいことはわかっていません。
年代 | 古墳時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和42年2月9日 |
所在地 | 結城市大字結城(公達) |
所有者 | 宗教法人華蔵寺 |
22 健田神社旧跡
健田神社は、『日本書紀』において東国地方を平定したとされる竹田臣の祖、武渟川別命(たけぬなかわわけみこと)を祭神とし、当初は結城本郷健田村(現結城市大字結城字健田)に建てられました。以後、長きにわたり健田の地にありましたが、江戸時代の宝暦14(1764)年、神仏習合により小塙の乗国寺と習合し、この地を離れました。その後、明治3(1870)年の神仏分離により浦町の須賀神社と合祀し、健田須賀神社として祀られています。
なお、江戸時代に乗国寺に移る際、この地に楓の木を植え、碑を置いたと伝わります。その楓の木は昭和50年に市の天然記念物に指定されましたが、平成7年に落雷を受け、枯死してしまい、指定も解除されました。
年代 | 平安時代~江戸時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和46年9月11日 |
所在地 | 結城市大字結城(見晴町) |
所有者 | 宗教法人健田須賀神社 |
23 増田遷晃文人の碑
釈迦堂の入り口に横1m60cm、高さ2mの句碑があります。この句碑は増田遷晁が明治8年に建立したもので、表面に「八九間 空で雨ふる 柳かな」と芭蕉の句が刻まれています。裏面には、上段に芭蕉を中心に大石良雄、其角、嵐雪、徂徠、中段に文晁、応挙、頼山陽、大雅、蕪村、蜀山人、下段には遷晁本人を含む8人が、それぞれ得意の句と姿態をもって刻まれています。
この碑に描かれた人たちは、遷晁が尊敬した人、師事した人、親しい友人たちで、その人たちが兄弟のように親しく遊んでいる遷晁の夢を描いたものです。
遷晁は、谷文晁(江戸時代)の流れをくみ、永く諸地方を歴訪して日本画を学びました。明治20年頃65歳で亡くなり、釈迦堂に葬られています。
年代 | 明治時代 |
数量 | 1基 |
指定年月日 | 昭和52年3月4日 |
所在地 | 結城市大字結城(永横町) |
所有者 | 宗教法人釈迦堂 |
24 早見晋我の墓
砂岡雁宕の伯父にあたる早見晋我もまた、雁宕とならび結城を代表する俳人です。晋我は若くして江戸に遊学し、俳諧を芭蕉の門人である榎本基角などに学びました。
その後、結城に戻った晋我は、家業を営むかたわら「晋我塾」という私塾(庶民が寺子屋を卒業後に、より高度な教育を受けたところ)を開くなど、各方面に活躍しながらも、結城の俳諧の中心人物として活動を続けました。砂岡雁宕を頼って結城に来た与謝蕪村とも交友を結びます。晋我は、晩年は北寿と号していましたが、延享2(1745)年、75歳で没すると、蕪村はその死を悲しんで、「北寿老仙をいたむ」という俳体詩を詠みました。
君あしたに去りぬ ゆふべのこころ千々に 何ぞはるかなる…
と綴られたこの詩には、蕪村が師と仰ぎ、兄とも慕った晋我への想いが読み込まれています。
年代 | 江戸時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和52年3月4日 |
所在地 | 結城市大字結城(穀町) |
所有者 | 宗教法人妙国寺 |
25 山川家歴代霊廟
山川氏は、上山川の東持寺の敷地に館を構えていたと伝えられ、戦国時代には山川新宿の綾戸城を居城としていました。その後、豊臣秀吉から領地を引き続き治めることを認められましたが、独立した大名としての地位を得ることはできず、本家の結城秀康の家臣となり、慶長6(1601)年、秀康の越前(福井県)転封に従い、山川氏も越前へ移りました。雲龍山長徳院は、長徳年間(995~999)に建立されたことからその名がつけられ、もともとは水海道の地にあったと伝えられています。
現在の寺院は、明応8(1499)年、山川朝貞が重光以来の祖先と祖父景貞の供養のために日州幸永を開山として招いて、曹洞宗の寺院として再興したもので、以後、山川氏の菩提所となりました。
年代 | 戦国時代 |
数量 | |
指定年月日 | 昭和52年12月6日 |
所在地 | 結城市大字今宿 |
所有者 | 宗教法人長徳院 |
26 城の内遺跡
城の内遺跡は、東西約177メートル・南北約127メートルの長方形を呈する居館跡です。指定地は山林となっており、四方は土塁と堀跡が現在も残っています。平成7年度、令和元年度に行われた発掘調査によって、室町期の居館と判明しました。また、出土した遺物の中に古銭や刀のハバキといった金属製品や硯、陶器などがあり、有力者の存在がうかがえます。
こうしたことから鎌倉時代から戦国時代末まで、当地を領していた結城家に関係する館跡と考えられています。
年代 | 室町時代~戦国時代 |
数量 | |
指定年月日 | 令和4年2月1日 |
所在地 | 結城市大字結城(城の内) |
管理者 | 結城市教育委員会 |
問い合わせ先
このページに関するお問い合わせは生涯学習課 文化係です。
〒307-8501 茨城県結城市中央町二丁目3番地
電話番号:0296-32-1931 ファックス番号:0296-33-3144
メールでのお問い合わせはこちらアンケート
結城市ホームページをより良いサイトにするために、皆さまのご意見・ご感想をお聞かせください。
なお、この欄からのご意見・ご感想には返信できませんのでご了承ください。
- 2021年8月26日
- 印刷する